“こもれび秋祭り”報告・駒沢の人気店も出張オープン! 子どもから大人までが大勢集まり、秋の1日を満喫しました!
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東京で暮らす“普通”の人たちの人生が書き綴られた『東京の生活史』。この本は、社会学者である岸政彦さん監修のもと、150人の「聞き手」が150人の「語り手」の話を聞いて書いたものです。
駒沢こもれびプロジェクトでは、『東京の生活史』の“スモールタウン版”として、『駒沢の生活史』プロジェクトをはじめます。街をゆく人々が、同じ時代を駒沢でどう生きているか。それを知ることで、駒沢という街の見え方や街での暮らし方も、少しばかり変わるかもしれません。
プロジェクトのファシリテーターを担うのが、働き方研究家である西村佳哲(にしむらよしあき)さんです。西村さんは著書『自分の仕事をつくる』をはじめとした、働き方についてのインタビューをライフワークのように続けている方です。さらにインタビューの「聞く」にフォーカスしたインタビューワークショップも開催しているなど、聞くことに対して真正面から向き合っている、いわば聞くことのプロ。
『駒沢の生活史』では、これから「聞き手」の募集をはじめます。自分のことを語る人に、「聞き手」はどう向き合えばいいのでしょう。わかっているようでわかっていない「聞く」ことを中心に、生活史をめぐる周辺のお話を西村さんに伺いました。
1964年東京生まれ。プランニング・ディレクター。リビングワールド代表。働き方研究家。つくる・書く・教える、大きく3つの領域で働く。
武蔵野美術大学・工芸工業デザイン学科卒。大手建設会社の設計部で働いたのち、30才で独立。仲間たちと「センソリウム」(1995〜)、「サウンドバム」(1999〜)等のプロジェクトを手掛ける。2002年に、西村たりほと「リビングワールド」を設立。2003年に最初の著書『自分の仕事をつくる』(晶文社/ちくま文庫)を上梓。
2014〜2022年4月はおもに徳島県神山町に居住。同町の「まちを将来世代につなぐプロジェクト」第1期(2016〜21)にかかわり、一般社団法人神山つなぐ公社の理事をつとめた。現在は東京在住。
ーーまずは、なぜ駒沢こもれびプロジェクトで「駒沢の生活史」をはじめようとしているのかを聞きたいです。
西村 私自身は井の頭線の永福町という街で生まれ育って、今もそこで暮らしてるんですけど、自分が住んでる街でこういうことがあったらいいだろうなと思うことを、こもれびプロジェクトにも考えたんですよね。例えば、自分の街の駅前の一等地に出来る新しい商業ビルが、ただ便利なだけだと、そんなに誇らしくは思えないだろうなと。
こもれびプロジェクトは、駒沢大学駅前に建てる商業ビルをただの商業ビルにしないチャレンジで、だったら他にどんなサブプロジェクトがあると、自分がそこに住んでることがよりおもしろくなるかなと考えました。そのときに『東京の生活史』のスモールタウン版が自分の住んでる街であったら、おもしろいかもしれないと思ったんですよね。
ーー駒沢という小さい街に限定すると、『東京の生活史』とはまた違ったものが生まれるのでしょうか?
西村 駒沢を中心としたひとつの生活圏の人数規模はざっと10万人ぐらいなので、東京の1500万人に比べるとずっと分母が小さいですよね。例えば、私は渋谷を歩いてると時々「全員知らない人だ!」と思うんですよね。
ーーあー。
西村 見事に(笑)。でも自分の住んでいる街だと「この人よく見かけるな」とか、「このおばあちゃんよくすれ違うな」というのは当然ありますよね。でも名前は知らないし、どんな暮らしをしているかも知らない。そういう街で生活史のプロジェクトをやると、『東京の生活史』とまた別の経験が生まれるんじゃないかなと思ったんですよね。その街に住んでることの意味や体験が豊かになったり、重層的になったりするようなものが作れるんじゃないかなと。
ーー駒沢に住んでいる人の話を聞いたり、その話を読んだりすることによって、自分の周囲への関心も変わるかもしれないということでしょうか。
西村 例えば一つのマンションで知らない者同士が暮らしているけど、それぞれがどんなふうに生きていてどんなことを感じているのか、匿名で書かれた小さな読み物が共有されたら、そこに住んでいる経験の質が変わると思うんですよ。直接的なコミュニケーションが増えるとか、具体的な物事が生まれることじゃなくて、「こんな人が同じ場所に住んでるんだ」と、今ここで一緒に暮らしている想像力の輪みたいなものが広がる。それはその後の振る舞いにすごく表れると思います。
ーーそうですよね。
西村 特に小さなマンションだと、ゴミのポイ捨てが起こりにくくなるだろうし、赤ちゃんの泣き声に対しても想像力を働かせやすくなる。東京みたいな大都市は、地方から出てきた人たちからすると、近所の目という煩わしさがなくて、匿名でいられる自由はあると思うんですよ。でも都会には、1人で食べて、1人で買って、1人で暮らせる、そんな個別でいるための商品群がすごく充実してる。それはもちろん、その方が消費が増えるからなんですけど。
例えばKindleも友達に貸し借りできないし、全部自分で持ってるしかない。今の現代の都市生活では、とにかく煩わしさは生まれないけど、人をバラバラにしていく方向のテクノロジーやサービスがすごい充実してるので、ほっとくとみんなバラバラになるんですよね。それを横に繋ぐものは別にSNSでもなくて、何かもっと別のものがあるはずです。それを今回、小さな街の生活史という形で作ってみるのも、おもしろいんじゃないかなと思いました。
西村 生活史のこのプロジェクトを始めるにあたって、生活史のおもしろさって何なのかなっていうことを最近よく考えているんですけど…『小山さんノート』って知ってる?
ーーあっ! はいはい。
西村 『小山さんノート』は聞いて書かれたものではなく、あるホームレスの女性が、誰に読ませる意図もなく書きためていたノートをまとめ直したものですよね。爆発的に売れてるわけじゃないけど一定の注目が集まっていて、手が伸びるっていうのは何か『東京の生活史』と同質なものを感じるわけですよ。それって、何ていうのかな。“人を変えようとしない文章”に、いま需要があるんじゃないかな。
ーー啓発本じゃないってことですか?
西村 ありていに言うとそうですよね。啓発本もそうだし、消費を煽るようなものも、人をコントロールしようとしてるわけです。街の隅々まで広告があって、思惑や恣意がこの社会にあふれすぎていて、みんなもういい加減嫌になってると思う。そういうものの中で、自由にいたいっていう気持ちが『東京の生活史』のようなものを受け入れる。自分のことを変えようとして書かれていない。いい気持ちにさせようとも、生活習慣を変えようとも、健康になるとも言っていないものに惹かれる流れが、この社会全体にあるんじゃないかなと思うんですよね。
ーー「駒沢の生活史」ではまず聞き手を募集しますが、聞き手は駒沢の人じゃなくてもいいんですよね。
西村 大丈夫です。語り手が、駒沢に住んでいる、あるいは住んでいた人であれば、聞き手はどこに住んでいても、そこで何か大きな差が生まれるとは思わないし。聞きたいのは、駒沢の“人”の話だからね。
ーーと、いうと?
西村 駒沢の生活文化を記録しましょう、ってわけじゃないんですよね。郷土史編纂プロジェクトでもないし、社会調査でもなくて。「生活史」はある特定の文化圏の中で生きた個人の人生のありようなので、聞き取るのはその本人の「こんなふうに生きてまいりました」という歴史の一部分というか。長くても話を聞くのは2時間くらいだから、当たり前だけど、全部は聞けない。
ーーお話を聞くのは1回だけなんですね。
西村 だから本当に、語り手の窓が開いた瞬間をのぞくようなことですよね。その人のすべてなんて、到底わからない。
ー本当に偶然拾ったというか、聞いた言葉が集まったのが生活史なんですね。お話を聞くタイミングや場所が違ったら、また違う話になるかもしれないですね。
西村 その「たまたまさ」は、別の言い方をすると「いつもおもしろい」ってことなんですよね。例えば同じ聞き手と同じ語り手で、1年後にもう1回会ったら、また違うものに必ずなる。生きているということは、変化していることだし、固定的なものなんてなくて、すべてが流動的に都度変わり続けているというか。そのうちのひとときをただ切り取ると、駒沢の断面図のようなものが見えてくる。それを「駒沢」と言ってもいいんじゃないかと思うんですね。
ーー生活史では聞き手が書き手にもなりますが、であれば、語り手が書き手になって一人称で自分の話を書いても成り立つのかなと考えていました。でも、語り手の話を聞き手が聞いて書くことが、恣意性を働かせないことにも繋がるんでしょうか?
西村 例えば友人宛に「最近どうしてる? こっちはこんな暮らしをしていて…」と手紙を書きはじめたら、最初に考えていなかったことを書いていたような体験はよくあると思うんですよ。人の前で話していても、文章を書き綴っていても、自分の外に出してみると、想像していた道筋とは違う道筋が見えてくることは、みんな経験としてありますよね。
友人に悩みをただ話していて、特に解決策を提示されなくても話し続けていたら、「あ、なんかわかってきた」と、ひとりでになるときもあると思うんですよ。あれは歩いていると風景が変わっていくとか、角に差し掛かって曲がると風景が変わって、そうするとあっちにもいけるんだと気づくことで、本人が出発地点では想定できなかった話にいくことが起きているんですね。それは、相手がいる方が起こりやすい。自分で「こういうものを書こう」と書きはじめると、それを物語として完成させようとしてしまう。
ーー確かに。
西村 相手がいても、自分のプレゼンテーションを完成させようとすると、自分の想定内で作ろうとついしてしまう。でも作り続けていくと必ず「あれもあった」と、新しい角を曲がる瞬間がたくさんあります。特に相手がいると、相手の反応に応じて自分の話が育っていくことが起こるので。今この瞬間もそうですけど、私が話せることも、話すことも変わってきますよね。
ーーなるべく語り手と新しい風景をみるために、聞くうえで意識できることはありますか?
西村 語り手の話には、その人が必要なときにいつでも引っ張りだせる、ある種十八番の歌のような話があったりします。またそれとは別に、今日初めて話すこととか、いつも話しているけどちょっと別の言い方で喋っていることとか、そのとき生まれてくるものがあると。そんな「こういうことを話すつもりじゃなかったけど」と、話しはじめた話がおもしろいことは多い。鮮度が高いんですよね。
ーー鮮度ですか。
西村 言葉として生きているんですよね。十八番のような、繰り返し語られている完成度の高いお話は、反対に鮮度が低い。だから生きている言葉は、センテンスとしての完成度が低いんです。ずっと感覚として存在しているけど、どう言ったらいいかわからないから「なんて言ったらいいのかな」と、言葉を詰まらせる。言葉に出したあともピッタリな言葉じゃないとわかると、自分で「って言うか」と一回取り下げてまた言い直すとか。
西村 伝えたい言葉を探るモードに入ってるときは、本人がいまこの瞬間の自分をできるだけ正確に表現したい状態になってるときですよね。それは自分が感じていることを言葉にするという、ポンプアップの作業だと思います。目の前の人がそうなり始めてるときは「次の質問です」と行かないで次の言葉を待つとか、「さっきはこういうところまでお話になってましたね」と、その人の話の後について、本人がそれに取り組み続けられるようにすることが大事ですよね。
ーー語り手と並走していくんですね。
西村 そこで「この人にこういう話をしてもらおう」と思うと、相手に対しての聞き方が操作的になる。本人の中には、まだ言葉になってないことが常にたくさんある。そういうものにちゃんと手を伸ばしながら話してもらうと、くり返し語られてきた同じエピソードも、もっと鮮度の高いものになって姿を現しますよね。
西村 特に日本語は、話すことに対する態度を決めずに話しはじめられるんですよ。例えば「〜〜と思います」だと「思います」で終わるけど、「〜〜と思うところもあって…」という終わり方もある。話しながら、そのことに関する自分の態度を考え続けられるんですよね。話しの内容について自分はどうなのか?という態度やありようは、語尾の方に現れるんです。だから自分は割と逐語(ちくご)的にテープ起こしをします。
ーー逐語というのは。
西村 語尾や言い淀み、あるいは沈黙を、そのまま正確に書き起こすのが逐語録です。語尾はすごく大事なんです。ね。語尾が外れると内容しかなくなっちゃって、ただのエピソードになっちゃう。そうすると、その人がいつ話してても同じというか。
ーーそのときの考え方がなくなってしまう。
西村 そう。話しながら最後のところで、「〜〜なんですよね、もう本当に何て言ったらいいか(笑)」という感じで、そのことに対して自分が笑っちゃうみたいな表現をしてるときは、そういう距離感になっていることが丸ごと表現されている。だけど内容だけ拾ったら、前に雑誌にも載っていたエピソードで終わっちゃう。でもそこをちゃんとキャッチして、「笑っちゃいますね」という具合に話の後をついていくと、話し手は「そうなんだよ。なんだろうね」という感じで、本人の最前線で話をつづけることができる。
ーーなるほど。
西村 それが思惑を持たない良さだと思うんだよね。岸さんは「相手が漕ぐ舟に一緒に乗ってゆく」と表現する。生活史の場合は、あなたの生きてきた時間とか、人生の質みたいなものを私にも聞かせてくださいということだから。あなたが有名な人で、新作の映画について聞きたいわけでもない。素敵な人間であることを喋ってもらいたいわけでもない。ただ今日、聞き手の私を前にして語るものがあったら、何か聞かせてくださいということで、方向性がないわけだよね。
ーーその人の人生の内容だけじゃなくて、その人がどう語ってるかも生活史としては大事なんですね。声がちゃんと聞こえてくるというか。
西村 すごくそうだと思います。「いつ何があった」でなく、「いまどんな感じか」というところに、その人がいるんだよね。生活史のおもしろさは、同じ時代に、自分と全く違う体験をしている人が生きている、という当たり前の事実と質を感じられることにある、と思うんですよね。
ーー生活史では聞くだけではなく、書くことも必要ですよね。書き起こした話をどう編集するか悩みそうです。
西村 音源を聞き返すと、ここはなんだか振動値が高いなと感じるところがある。波紋ひとつ立ってないペターっとした水面じゃなくて、さざ波が立っているというか。別の言い方だと弾んでいるというか。それは内的なエネルギーが上がってきているときですよね。ひとつの話をしてる中にも抑揚があって、起伏がある。その地形的な特徴は逃したくないよね。
でも、聞いて書くことに慣れてない方は、テープ起こしをすると、その中のおもしろいエピソードに食いつきやすいと思うんですよ。編集されたおもしろい読み物を読む経験に慣れてるので。でも、思い出してほしいのは、その人が話しながら一番言葉を探していたのはどの辺りだったかなということ。一所懸命話す言葉を探していたところが、その人の最前線に近かったわけだよね。
そういうのはどういうところにどんなふうに現れてるか、はたまた語り手にどういうふうに聞き始めたらいいのかは、参加が決まったメンバーを対象にした「生活史の聞き方」「生活史の書き方」ワークショップでお伝えしてみようと思います。
ーーどんなワークショップを受けられるのか楽しみです。西村さん、ありがとうございました。
駒沢の生活史プロジェクトの詳細については、下記WEBサイトをご覧ください。
プロジェクトをご一緒する「聞き手」を、6月20日(木)まで募集しているので、興味のある方はぜひ。
駒沢の生活史プロジェクト
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駒沢の生活史プロジェクトに先駆けて、『東京の生活史』の編集者である筑摩書房の柴山浩紀さんを招いて、トークイベント「生活史の面白さは、なに? 」を6月8日(土)に開催します。当日はプロジェクトの概要や、参加申込の手順もご紹介しますので、どうぞご参加ください。
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photographer :Wakana Baba
text:Lee Senmi