インタビュー

駒沢に400年以上根付く地主<眞井家>に聞く、駒沢のまちのこと。20代続く家系図【後編】

代々続く駒沢の地主であり、駒沢交差点の角地に3つのビルのテナント部を持ち、駒沢の変遷を土地とともに見守ってきた眞井家。19代目となるサナイコーポレーションの代表取締役・眞井斎壽さんにお話を伺った後編では、昔の駒沢を振り返りながら、眞井家が所有する駒沢のシンボルのようなガーデンテラス駒沢について話が及んでいきました。

駒沢の昔と今の街並み

眞井 会社の事業を説明しますと、不動産賃貸業です。駒沢交差点の角地に3つのビルのテナント部を所有しています。これは1964年の駒沢交差点の写真ですね。写っているのは、私の大叔父が昔経営していた「カド薬局」です。当時はまだ首都高速道路がないので、空が広くて明るい風景ですよね。

1964年の駒沢交差点。現在はファミマやすき家とチョコザップのビルなどがある場所。
眞井斎壽(さないなりとし)さん。眞井家の19代目であり、株式会社サナイコーポレーション代表取締役。

ーー今の「駒沢大学前」交差点は「真中(まなか)」と呼ばれていたのですね。

眞井 玉電(東急玉川線)の電停で「駒沢」のひとつ渋谷寄りが「真中」でした。駒沢の地主である眞井と中村の名前をひと文字ずつとってつけたと聞いています。そして246号線沿いの首都高速道路ができたのが1971年ですよね。忘れもしません。僕が小学生のときのことで、2年間ほど父の仕事に付いて台湾に行ってたんですが、帰ってきたら駒沢の空が暗くなってたんですよ。

ーー2年で! すごい話ですね。

眞井 この写真は1964年に撮ったものです。私の祖父と祖母とひとつ上の姉が写っています。246号線沿いの店舗の前ですが、空から光がさんさんと当たってるので明るいでしょう。

奥に「ヒラマツ」と書いてありますよね。手芸屋さんなんですが、昔の建物のまま今も残っています。下山商店さんは創業117年ですが、ヒラマツさんも長いですよ。

上の写真と全く同じ場所の現在。手芸屋「ヒラマツ」は健在。

ーー1964年といえば東京オリンピックが開催された年ですね。駒沢陸上競技場や駒沢体育館が会場になってましたが、記憶に残っていますか?

眞井 オリンピックは僕が生まれて1年後で、1歳のときだから記憶はないんです。確か駒沢体育館でやってたレスリングでは、日本が金メダルを獲りましたよね。父がその試合を見てたはずです。あとはバレーボールとホッケーも駒沢の会場で行われてましたよね。

駒沢公園にあるオリンピック聖火台。左が1964年当時の聖火がともった様子。右が現在の聖火台の様子。

ーー子どもの頃の駒沢の、印象深い思い出はありますか?

眞井 とにかく空が広かったですね。玉電に乗ってると、ゆっくり時間が流れてました。ただ、僕は昭和38年生まれですから、車はもうかなり多かったです。車通りがすごく激しいなかで、ゆっくり玉電が走ってたのをかすかに覚えてますね。時々行ってた駒沢公園は、子供にとってはちょっと距離がありました。なかなか246号線を超えて公園の方までいくのは大変でしたね。

異国情緒ただようガーデンテラス駒沢

眞井 この写真は昭和7年、1932年10月に現在のガーデンテラス駒沢の土地に眞井家の自宅を作ったときのものですね。

ーーこのときはまだ、建物が眞井さんのご自宅だけのときですか?

眞井 はい。うちの祖父が祖母を迎えるときに、この土地に自宅を作ったんです。

1980年頃の眞井邸。現在のガーデンテラス駒沢が建つ広い土地に、眞井家だけが暮らしていた。
実は戦後すぐの頃、眞井家の離れに「サザエさん」の生みの親である長谷川町子さんが下宿していた時期があったんだとか! 

ーー現在のガーデンテラス駒沢のように賃貸住宅が建ち並ぶようになったのは、何かきっかけがあったんでしょうか?

眞井 28年前に父が賃貸住宅にすることを選んだんです。1000坪の土地に、ひと家族しか住んでないのは維持ができないと。固定資産税もそうだし、庭の手入れで植木屋さんを入れるのにもお金がかかりますよね。不動産賃貸業が家業としてずっと続いてますが、建物を建てて人に貸し始めたのは父の代からなんです。祖父の代は土地を借地として貸してただけなので、全然やり方が違うんですよ。駒沢の他の地主さんは、土地を世田谷区の公園として開放しているんですけど、我々は自分たちで活用する方法を選びました。

異国を思わせるような素敵な外観の家が建ち並ぶ。取材した日も庭師さんが庭を整えていた。

ガーデンテラス駒沢の裏口には、眞井旧本家からある冠木門(かぶきもん)が構えている。

ーーお父様がこういう欧米風の建物を建てようと決められたんですか?

眞井 そうなんです。企画に何年もかけてアメリカまで視察にいきました。最初カルフォルニアに行ったけど少し違ったみたいで、もう少し北のオレゴン州とワシントン州まで足を伸ばして、そこの住宅をモデルにしてガーデンテラス駒沢ができました。

ーー壁の色もとても素敵ですよね。

眞井 色はリノベーションのときに変えました。あるとき父がガーデンテラス駒沢の3分の1を木造マンション3階建てに建て替えたいと言い出したときがあったんです。だけど高級賃貸物件の中に、普通の坪単価の3階建ての建物を建てるという中途半端な計画だったので、リノベーションした方がこれまでのガーデンテラスの雰囲気を壊すこともないし、さらに賃料アップも期待できるという長期シミュレーションをして父を説得しました。

ーーそんな出来事があったんですね。

眞井 そうなんです。最終的に高級物件に思いっきり舵を振った結果、建て替えの想定してた家賃とほぼ同じ賃料を取れるようになったんで、リノベーションの成功例ですね。色もプロのデザイナーさんに入ってもらって、内外装の色を変えました。デザイナーさんいわく、グリーンが強いと本物の緑の色が活きないと。なので建物の色をグリーンの彩度を落として、植物の色を活かしました。

ーーやはりガーデンテラス駒沢は駒沢のシンボルのようなイメージがあります。こもれびスタジオのスタッフも、子どもの頃に友達がここに住んでいて、遊びに来るのが夢のようで楽しみだったと言っていました。最後に、駒沢のような、ひとつの地域に根付いてずっと不動産業をする、やりがいというか面白いところはありますか?

眞井 ある程度の規模があるので、まち作りを点で見つつ開発ができるのかなと思っています。ですがそれにはもっと地元との繋がりを強くしないといけないんですよね。だけど僕は30年間離れていたんで、地元との繋がりが欠けているんです。なので、こもれびプロジェクトと一緒に何かできればいいですね。

ーーぜひ、一緒に活動していきましょう!

photographer :Wakana Baba
text:Lee Senmi

KOMAZAWA
COMOREVI
PROJECT_.
駒沢こもれびプロジェクト